中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。神の中の神、宇宙の支配者だといわれる梵天つまりヤハウェが、この白カラス亭に出現した。有り難いといえば、こんなに有り難い話はない。神棚も何も置いてない、宗教とは何の縁もないこの白カラス亭に神様が登場したのだから、クリスマスと正月とお盆が一緒に来たようなものだ。ただ、厄介なのは、神様だけでなく地獄の支配者であるサタンや堕天使のルシファーや女悪魔のリリスまで登場したのだから話はややこしい。それに、この白カラス亭は多重世界の一つに存在するらしくて、現実とは別の白カラス亭らしい。僕が此処にいるということは、現実世界の白カラス亭は休業中なのだろうか?どうも良く判らなくなった。
白カラス亭の中がピンク色の霧に包まれ、バラの香りが充満した。梵天の姿も見えなくなった。あの巨体の帝釈天も大天使ミカエルの姿も突然消えてしまった。優しい優雅なハープの音色が聞こえてきた。何時も有線放送から流しているロックやスタンダード音楽より格調の高い音色だった。
黒のフード、黒のマント、ミイラのような黒い顔と黒い手。全てが黒尽くめのサタンが凍りついたように動かなかった。
「ヤ・・ハウェ・・・・。ニ・・ゲ・・ル・・ノカ。ヤ・・・・ハ・・・ウェ。ヤ・・・・ハ・・・・ウェ・・・・・。」
また、あの油の切れた機械同士がこすれる様な、耳障りな声がサタンの口から発せられた。
たおやかなハープの音色に混じって、心の奥底に沁みる優しい女性のような声がどこからともなく聞こえた。僕は天井を見上げた。
「サタンよ、お聞きなさい。貴方は私の秘密を知りたいと言いました。貴方の言う通りに私の秘密を教えて差し上げましょう。でも、それを聞いたところで貴方はこの宇宙の支配者になれる訳ではないのですよ。・・・・それどころか、貴方はますます絶望と虚無と悲嘆の深淵に堕ち込むことになるでしょう。」
「コノ・・・・ワシヲ・・・・オドス・・・トハ、タイシ・・・・タ、カ・・・ミダ・・・・。」
サタンの声が割れた。しかし、あきらかに狼狽している様子が判った。
「サタンよ、良くお聞きなさい。サタンよ、貴方は私なのです。・・・・サタンよ貴方は私の分身なのですよ。サタンよ貴方は、この宇宙が混沌としていた創世記に、私が私自身から切り捨てた私の負の意識なのです。宇宙の創世と同時に私も誕生しました。しかし、その当時、宇宙の混沌の時、私には悪の意識も同時に生まれました。私はその悪の意識だけを切り離して、地獄界を創造しました。全ての多次元宇宙でも悪の意識は芽生えます。私は悪の意識が集まる場所を造ったのです。そうなのです、地獄界を造ったのもこの私なのです。そして、私自身の悪の意識をそこの支配者としました。それが貴方なのです。つまり・・・・貴方は私自身なのです。」
「ウ、ウ、ウ・・・ウソ・・・ダ。ウ・ウ・ウ・・・・ウソ、ヲ・・・・ツクナ!ソ、ソ、・・・・ソンナ・・コトハ・・・ア・・・リ・・・エ・・ナイ・・・・・。」
僕には何故か地獄の支配者のサタンが泣いているように聞こえた。
「帰りなさい。貴方の居場所に帰りなさい。私はこの多次元宇宙の様々なところに、様々な私の分身を配置しました。梵天も帝釈天もヴィシュヌ神もシバ神もヤハウェも全て、私自身の分身です。私もミカエルやイブを連れて天界に戻ります。貴方もルシファーとリリスを連れて地獄界に戻るのです。我々が何時までもこの次元にいると、この次元の因果律が狂ってしまいます。さっさと戻りなさい。」
ピンクの霧がすぅ〜っと天井の一点に吸い込まれるように消えた。ハープの音色も聞こえなくなった。白カラス亭の中はまた、誰も居ない空間に戻った。朝比奈玲子も消えていた。事務所のドアの隙間から覗いていた富ちゃんも消えた。僕は慌てて、白カラス亭の大きな木製のドアを開けて、ガス灯通りに飛び出した。バタバタ飛び出したのに、無音であることに僕はまるで気づいていなかった。
「ひょえぇぇぇっ!ど、ど、ど、どうした・・・ってんだ。」
帝釈天が乗って来た、あのダンプカー並みのマンモスも巨大なウンチも掻き消えていた。それ以上にびっくりしたのは、ガス灯通りの全ての景色が無くなっていた。
僕はびっくりして、再び白カラス亭の中に戻った。