2008年05月08日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭109

中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。僕は次元の狭間を行ったり来たりしていて、頭が混乱してしまったようだ。あちらの世界で帝釈天やサタンとの火花を散らす喧嘩に出会い、大天使ミカエルや堕天使ルシファー兄弟に翻弄され続けたからに違いない。いやはや、巨大なマンモス象のウンチには圧倒されたが、その臭いの記憶が無かった。どちらにせよ、やはりこちらの世界が住み易いようだ。

カウンターでモヒートを上品に唇に運ぶ、ガクト似氏に朝比奈玲子と富ちゃんの視線が張り付いていた。

「ふぅぅぅ〜・・・・。」

やるせない、細い嘆息がガクト似氏の口から漏れた。

「どうかしましたか・・・、モヒートがお口に合いませんでしたか?」

僕は富ちゃんの視線を遮るように体をずらした。

「もうっ、マスターったら、邪魔よ、邪魔なのぉ!」

富ちゃんがガクト似氏の隣に席を移動した。

ガクト似氏がさりげなく、静かに富ちゃんに背を向けた。

「あ、あ、あ、もうぉ・・・・・・。」

富ちゃんが、いじらしいような、つらそうな声を小さくあげた。

「あのぅ、此処で待ち合わせているんですが、誰も来ませんでしたか?」

ガクト似氏が恥ずかしそうに床に視線を落とした。

「ええ、誰も・・・あの、女性と待ち合わせ・・・ですよね?」

僕は富ちゃんが気になったが、構わずに聞いてみた。

「ええ、女性です。どうしてもこのお店で、待ち合わせしたいって、その女性が言うので・・・。」

「へぇぇ、白カラス亭も有名になったものよね。・・・女なんて、止めたらいいのに。ニューハーフの方がよっぽど、尽くすわよ。」

富ちゃんがカウンターに乗り出すようにガクト似氏に身を寄せ、ガクト似氏の空いている片手をしっかりと握った。

ガクト似氏が反射的に手を引っ込めようとした。まるで感電したような驚きようだった。

「ねぇねぇねぇ、その女性が現われなかったら、私が身代わりって、どう?・・・名案でしょう。」

今度は朝比奈玲子が身を乗り出した。

もう、どいつもこいつも、ちょっと佳い男が来ると、こうも違ってしまう。僕は半分呆れて二人の顔を交互に見つめた。

しかし、それにしても、どうもこのハンサムなガクト似氏の態度が腑に落ちなかった。

僕は有線放送のチャンネルを変えた。

「??」

曲が流れていないのに、いままで気が付かなかった。音が出ない?どのチャンネルからも音が出なかった。ふと、僕は振り返った。

「あぁぁっ!」

僕は驚いて息を飲み込んだ。ガクト似氏を残して、富ちゃんも朝比奈玲子も煙のように消えていた。ガクト似氏の瞳が金色に光った。

 

2008年04月04日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭108

中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。長身、黒のスーツ、黒のチャッカーブーツ、脚の長さは身長の半分もありそうな、ガクト似氏がカウンターの席に腰掛けた。

「きゃぁ〜、すっっごいわよ。ねぇねぇねぇ、マスター、こちらの美青年ったら、腰掛けて、脚が床に着いて、まだ余裕よ!マスターと大違いだゎぁ。」

冨ちゃんが感嘆の声を発した。声に艶かしいピンク色が掛かっていた。

「冨ちゃん、僕とお客様を比較しないでくれよ。お客様に失礼・・・・じゃなかった、僕に失礼だ。」

僕は笑いながら、冨ちゃんとガクト似氏を見比べた。ガクト似氏の表情に変化はなかった。朝比奈玲子はガクト似氏に興味津々の様子だった。

「お客様、失礼しました。ところで何を召し上がります?」

僕は何時もの白カラス亭マスターに戻り、恭しくガクト似氏に聞いた。

「え〜と、じゃぁ・・・モヒートを下さい。」

僕は一瞬耳を疑った。

「えっ、やっぱり、モ、モ、モヒートですか?」

「ええ、モヒートです。当然できますよね・・・・。僕、何か驚くこと言いました?」

「いえいえ、あのぅ、お客様はこ、この私の、この店は初めてですよ・・・ね?」

「ええ、初めてですけど・・・それがどうかしました?」

「いえ、そのぅ、何て言うか・・・そのぅ、貴方にそっくりな方がつい先ほどこの店にいらっしゃって、と言うか出現して、そのそっくりさんもモヒートを注文なさったんで、驚いていたんです。」

「ああ、な〜んだ、そんなことですか。でも・・・僕に似た男は沢山いますし、モヒートを注文する方だった多くいますでしょう?別に不思議でも何でもないですよ。」

「え、え、えええ。まぁ、そのぅ何て言うかそうですよね。」

僕は曖昧な返事を返した。

「マスターってば、マスターってば、本当に変!」

「そうよ、そうよ、絶対に変よ!」

冨ちゃんと玲子が声をそろえて僕を睨んだ。

グラスの底で軽くすりつぶした、ミントの葉の香りがほんのりとお店の中に広がった。12枚のミント葉とライムジュース、シュガーシロップを加え、クラッシュアイスにバカルディラムを注ぎストローを差し込んでモヒートの完成である。

ガクト似氏が僕の手元をじっと見つめていた。ふと視線を上げた僕の目の前にガクト似氏の無表情の顔があった。僕は「あっ!」と息を飲み込んだ。ガクト似氏の背中に大きな黒い翼を見たのだった。しかし、その翼は直ぐに消えた。危うく、グラスをひっくり返すところだった。

どうも、先ほどの次元と現在の次元が僕の脳内でオーバーラップしているようだった。

ガクト似氏が瞼をそっと閉じてモヒートの入ったグラスを形の良い唇に持っていった。男性にしては長すぎる睫が、印象的で凄い色気を醸し出していた。

「あのう・・・・ちょっと伺っても良いでしょうか?」

ガクト似氏の性感を刺激する、バリトンが口をついて出た。

冨ちゃんと玲子が同時に切なそうに胸を押さえた。

 

 

 

 

2008年03月18日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭107

心臓病の為、暫くお休みを頂戴しておりました。来週も検査がありますが、もし検査の結果が悪ければ、手術をしなければなりません。湘南の魔女まもりんさんや、れいじ、その他読者の方々にはすっかりご無沙汰をして申し訳ございませんでした。銀座のバー白カラス亭もまた開店しますが、来週の検査結果ではまたまた、休業の可能性もございます、何卒宜しくお願い申し上げます。

さて、前回までのストーリーでは、全てが夢の中だったのだろうか?訳もわからず、ちぐはぐな問答が朝比奈玲子と交わされた。ニューハーフの富ちゃんは僕等の顔を交互に見ていた。

その時、白カラス亭の自慢のドアがゆっくりと開いた。痩せて長身の青年が入って来た。僕は顔を見て、声を上げた。

「あ、あ、あ、あんたは、あんたは・・・・・・・・!」

なんと、あのガクト似氏の青年が入って来たのだ。

「れ、れ、れ、玲子ちゃん、あのお、お、男だ・・・・君を振った、袖にした・・・・。」

僕はガクト似氏の男性に視線を置きながら、朝比奈玲子に言った。

「はぁ?・・・・ねえねえ、マスター、本当に大丈夫?・・・・一体何の事よ。」

玲子の疑問府だらけの声が僕の背中に返って来た。

僕は、背中を玲子と富ちゃんに見せながら続けた。視線はガクト似氏に向けていた。

「何言ってんの、何言ってんの、何言ってんのよ、玲子ちゃん。彼だよ、彼っ!と、と、富ちゃんだって見ていたろ!あの、あの、あの双子の・・・・。」

「え〜?・・・・何のことぉ?ね、マスターったら、何か変よ。」

富ちゃんが怪訝な顔をしたことが背中で判った。

カウンター超しに背伸びをした、小柄な玲子が片手で僕の背中をぽんっ!と叩いた。

「マスター、しっかりしろ!」

僕と玲子と富ちゃんのやり取りを、ドアを後ろ手に閉めた、ガクト似氏が低い声で言った。

「あのう・・・・お店開いてるんですよね?・・・・座ってもいいですか・・・何か取り込み中でした?」

僕は、ガクト似の顔をまじまじと見つめた。

ガクト似氏の青年はカウンターの椅子に座って、後ろを振り返った。勿論そこには壁しかない。それから、僕の顔と玲子の顔と富ちゃんの顔を順繰りに見た。

「あのう・・・・僕の顔?・・・それとも僕の後ろに何か・・・・。何だか気味悪いんですけど。」

「そうよ、そうよ、マスター変!・・・・お客様が驚いているじゃない。・・・・ご免なさいね、今日のマスター、何だか・・・そのう、さっきね、ソファーから落っこちて、少々頭を・・・その、ちょっと・・・。」

玲子がガクト似氏に余計な説明をした。

「あのう・・・折角ですが、僕帰ります。あ、何もいらないです。ど、どうも・・ご免なさい。」

ガクト似氏が長い脚を床に着け、カウンター席から立ち上がろうとした。

美青年が大好きな富ちゃんが、ガクト似氏の横にすぅ〜っと近寄って、袖をひっぱった。

「ねぇ、よろしかったら、こんな変な親父のお店より、私のお店にご一緒しませんこと?」

富ちゃんが妙にねばっこい視線をガクト似氏に送った。

「おいおい、富ちゃん。こんな変な親父の店はないだろう!」

今度は僕が憮然とする番だった。

ホイットニー・ヒューストンの寂びた声が再び有線から流れて来た。

2008年01月08日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭106

中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。朝比奈玲子によると、僕は事務室の中で仮眠していたらしい。しかし、どうも事実が錯綜しているようだ。僕の記憶の中では、確かに僕にキスを迫ったのは朝比奈玲子であり、神に誓って僕からではない。無神教の僕が神の名前を出すのはおこがましいが、この際神様にはお許し戴くとしよう。スプリンクラーが急に故障して水浸しになったのは僕と朝比奈玲子の二人であり、僕だけではなかった。それにローズ色のラ・ペルラの下着をつけた朝比奈玲子の姿を僕は確かに、己の網膜に焼き付けているので、これまた想像の世界ではなかった。この手の記憶には自信があった。双子のガクト似氏だって存在してたに相違ないが、多重世界が重なったその折り目で、多分事象が入れ替わったのに違いなかった。

僕の経験したことは事実であり、間違いなく、パラレル世界のどこかの一つで生じたことだ。僕も、朝比奈玲子もニューハーフの富ちゃんも、このパラレル世界の幾つかを行き来してしまったのだろう。パラレル世界の重なった折り目が、偶然にもこの銀座の白カラス亭にかぶってしまったのだろう。

「玲子ちゃん、有難う。頭痛も少し治まったようだよ。面倒掛けたね。」

「大丈夫って、言いたいんだけど・・・やっぱ少々不安だったよ。だってさぁ、変態客でも入ってきたら、どうしようって。マスターは熟睡していたしさ、あたしは一人だしさぁ・・・。」

朝比奈玲子の大きな瞳に大粒の涙が浮かんで、頬に伝って落ちた。

「ああ、ごめん、ごめん。そんなに不安だったんだ。本当にごめん。・・・機嫌を直してくれるかい?・・・・そうそうモヒートでも、もう一杯飲むかい?」

「ううん、いらな・・・・い。・・・モヒートって?」

「ええっ?お、おぼえてないの?さっきまで飲んでいた・・・モヒート。」

僕は驚いて朝比奈玲子をまじまじと見つめた。

「・・・・・?マスター、本当に大丈夫?あたし、飲んでいたのってマンゴーサワーよ。」

どうやら、この当たりから、僕ら二人の記憶に違いが生じているようだった。

有線放送からホイットニー・ヒューストンの乾いた歌声が流れて来た。その時だった、白カラス亭の自慢の木製ドアが音を立てて開いた。懐かしいような、しつこいような顔が現われた。富ちゃんのオーデコロンの香りが漂った。

「あれぇ、富ちゃん。どうしたの・・・・まだ営業中だろう?」

「へへへへ・・・・。ちょっと、お・さ・ぼ・り・・・・。んってか、なんか白カラスさんのお顔見たくなってね、変よね。」

「ちょちょちょ、ちょっと、富ちゃん。背中に何か付いているよ。」

僕は富ちゃんのショールに付いていた物を手に取った。朝比奈玲子が僕の手を覗き込んだ。

「それって、羽根?・・・黒い羽根・・・カラスの羽根かしら。」

確かに黒い羽根だった。しかしカラスの羽根にしては大き過ぎないだろうか。僕は堕天使ルシファーを思い出した。

その時三人が同時に悲鳴を上げた。何故なら僕が指で摘んだ黒い大きな羽根が蒸発するように消えていた。事象の交錯状態は、まだ続いているようだった。

 

2007年12月12日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭105

中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。神や天使やサタンや悪魔が集っていた白カラス亭が、一瞬で静かになった。神も天使も悪魔も全員が煙のように消え去っていた。巨大なダンプカー並みのマンモスや草津のお湯のような匂いと湯気が立ち昇っていた山盛りのウンチも、ガス灯通りの景色も消え、まるで無音の世界と化していた。僕は首を捻りながら、よたよたと白カラス亭の中に戻った。

「ぇぇぇぇっ!・・・・・・・。」

僕は息を飲み込んだ。白カラス亭の中から全てが消え去っていた。壁も天井も床もカウンターも酒瓶も何もない白い空間が広がっていた。勿論音など何も聞こえない。

「あわわわわ・・・・・ど、ど、どうしたんだ。」

自分の驚いた声さえ聞こえず、まるで無音だった。匂いも何も無い。立っている自分の足元の感覚も無かった。上下左右が判らなくなった。

「・・・・・・・・・・!」

僕は悲鳴を上げた。上げた筈だった。いや、確かに悲鳴を上げた。しかし、音として自分の耳に聞こえてはこなかった。僕は無の世界で慌て、驚き、もがいた。クロールのように腕を回そうが、脚をばたつかせようが、感覚そのものが消え去っていた。

僕の後頭部に鈍い痛みを感じた。

「・・・・ん?・・・・・痛み・・・痛みを・・・感じる?・・・・生きているんだ。」

焦点の合わない、僕の瞳の中に朝比奈玲子の小さな顔が、クローズアップで映った。

「・・・・・・?」

「あ、あ、あ、やっと、やっと気が付いたわ。・・・・ん、もう・・・・何時まで一人で店番させておくつもり、ねぇ、マスター、マスターったら、しっかりしてよ!」

僕の脳の中で様々な情報が入り混じり、交錯し、ショートし、混乱状態が生じていた。

僕はじっと動かずにいた。朝比奈玲子は僕の顔を上から見下ろしていた。

「ねぇぇ、マスターったら、何時までも床で寝てないでよ。お客さん入って来たら、知らないわよ。あたし、な〜んにも分かんないんだよ。本当にもうっ・・・・!」

僕は肘で体を支えながら、そろそろと上半身を起こした。裸の上半身に毛布が申し訳程度にひっついていた。

僕は自分の状況が何となく理解できるようになった。朝比奈玲子が僕に抱きついて、キスをした瞬間に天井のスプリンクラーが故障して水を頭から浴びた。そこまでは、切れ切れではあるが思い出した。その後が理解できずにいた。

「玲子ちゃん、ガクト似氏はどこに行った?ん〜、と帝釈天やサタンは・・・・・。ミカエルにルシファーは・・・・・?」

僕は混乱する頭をさすりながら、朝比奈玲子に尋ねた。

「ねぇねぇ、本当に大丈夫?・・・・ガクト似とか帝釈天とかサタンって何のこと・・・・?夢みたんじゃないの?」

「え〜っと、玲子ちゃんが僕にキスをして、二人とも頭から水浸しになって・・・・玲子ちゃんがモヒートで酔っ払って・・・それでぇ・・・ラ・ペルラのローズ色のブラジャーとパンティーで・・・・。」

「えっ?・・・・ラ・ペルラのローズ色のブラジャーとパンティーって何のことよ。アタシの下着のこと?・・・・あたしの下着って、今日は白よ。だいたい、ラ・ペルラなんて高価な下着なんて着たこともないわよ。ねぇねぇ、本当に大丈夫・・・?」

さっぱり、判らなかった。僕は一体どうなったんだろう。朝比奈玲子だって、リリスが憑依して、その後帝釈天によって、イブが憑依したのでは?

「マスター、本当に何も覚えてないの?水浸しになった後、風邪引くからって事務所に入ったわよね。その後、頭が急に痛くなったから、ちょっと横になるから、お客様が来たら起こしてくれって、あたしに店番させたんじゃない。」

朝比奈玲子の説明に僕は、衰えかけている中年の脳細胞をフル回転させた。前立腺が肥大し、下の栓が緩くなっている中年男は、脳細胞も死滅し始めているから、思い出すのが大変だった。

「酔っ払った玲子ちゃんも水浸しになって、それで、風邪引くからって、裸になって・・・・。」

「何を夢みてんのよ。水浸しになったのは、マスター一人じゃない。急にあたしにキスしようと迫ってさ、あたしが逃げた途端にスプリンクラーが故障して、マスターが一人で水浴びしたんじゃない。あたしは、ほら、この通り・・・何にも濡れてないでしょう。」

僕は記憶の糸を手繰り寄せるように、ここまでを何とか思い出そうとした。

 

2007年12月04日

白カラス亭奇談ー銀座のバー白カラス亭104

中央区銀座3丁目、ガス灯通りの真ん中に小さなバー白カラス亭がある。神の中の神、宇宙の支配者だといわれる梵天つまりヤハウェが、この白カラス亭に出現した。有り難いといえば、こんなに有り難い話はない。神棚も何も置いてない、宗教とは何の縁もないこの白カラス亭に神様が登場したのだから、クリスマスと正月とお盆が一緒に来たようなものだ。ただ、厄介なのは、神様だけでなく地獄の支配者であるサタンや堕天使のルシファーや女悪魔のリリスまで登場したのだから話はややこしい。それに、この白カラス亭は多重世界の一つに存在するらしくて、現実とは別の白カラス亭らしい。僕が此処にいるということは、現実世界の白カラス亭は休業中なのだろうか?どうも良く判らなくなった。

白カラス亭の中がピンク色の霧に包まれ、バラの香りが充満した。梵天の姿も見えなくなった。あの巨体の帝釈天も大天使ミカエルの姿も突然消えてしまった。優しい優雅なハープの音色が聞こえてきた。何時も有線放送から流しているロックやスタンダード音楽より格調の高い音色だった。

黒のフード、黒のマント、ミイラのような黒い顔と黒い手。全てが黒尽くめのサタンが凍りついたように動かなかった。

「ヤ・・ハウェ・・・・。ニ・・ゲ・・ル・・ノカ。ヤ・・・・ハ・・・ウェ。ヤ・・・・ハ・・・・ウェ・・・・・。」

また、あの油の切れた機械同士がこすれる様な、耳障りな声がサタンの口から発せられた。

たおやかなハープの音色に混じって、心の奥底に沁みる優しい女性のような声がどこからともなく聞こえた。僕は天井を見上げた。

「サタンよ、お聞きなさい。貴方は私の秘密を知りたいと言いました。貴方の言う通りに私の秘密を教えて差し上げましょう。でも、それを聞いたところで貴方はこの宇宙の支配者になれる訳ではないのですよ。・・・・それどころか、貴方はますます絶望と虚無と悲嘆の深淵に堕ち込むことになるでしょう。」

「コノ・・・・ワシヲ・・・・オドス・・・トハ、タイシ・・・・タ、カ・・・ミダ・・・・。」

サタンの声が割れた。しかし、あきらかに狼狽している様子が判った。

「サタンよ、良くお聞きなさい。サタンよ、貴方は私なのです。・・・・サタンよ貴方は私の分身なのですよ。サタンよ貴方は、この宇宙が混沌としていた創世記に、私が私自身から切り捨てた私の負の意識なのです。宇宙の創世と同時に私も誕生しました。しかし、その当時、宇宙の混沌の時、私には悪の意識も同時に生まれました。私はその悪の意識だけを切り離して、地獄界を創造しました。全ての多次元宇宙でも悪の意識は芽生えます。私は悪の意識が集まる場所を造ったのです。そうなのです、地獄界を造ったのもこの私なのです。そして、私自身の悪の意識をそこの支配者としました。それが貴方なのです。つまり・・・・貴方は私自身なのです。」

「ウ、ウ、ウ・・・ウソ・・・ダ。ウ・ウ・ウ・・・・ウソ、ヲ・・・・ツクナ!ソ、ソ、・・・・ソンナ・・コトハ・・・ア・・・リ・・・エ・・ナイ・・・・・。」

僕には何故か地獄の支配者のサタンが泣いているように聞こえた。

「帰りなさい。貴方の居場所に帰りなさい。私はこの多次元宇宙の様々なところに、様々な私の分身を配置しました。梵天も帝釈天もヴィシュヌ神もシバ神もヤハウェも全て、私自身の分身です。私もミカエルやイブを連れて天界に戻ります。貴方もルシファーとリリスを連れて地獄界に戻るのです。我々が何時までもこの次元にいると、この次元の因果律が狂ってしまいます。さっさと戻りなさい。」

ピンクの霧がすぅ〜っと天井の一点に吸い込まれるように消えた。ハープの音色も聞こえなくなった。白カラス亭の中はまた、誰も居ない空間に戻った。朝比奈玲子も消えていた。事務所のドアの隙間から覗いていた富ちゃんも消えた。僕は慌てて、白カラス亭の大きな木製のドアを開けて、ガス灯通りに飛び出した。バタバタ飛び出したのに、無音であることに僕はまるで気づいていなかった。

「ひょえぇぇぇっ!ど、ど、ど、どうした・・・ってんだ。」

帝釈天が乗って来た、あのダンプカー並みのマンモスも巨大なウンチも掻き消えていた。それ以上にびっくりしたのは、ガス灯通りの全ての景色が無くなっていた。

僕はびっくりして、再び白カラス亭の中に戻った。